「燃え広がる荒野」ピープルシアター第66回公演 2018.10.3 19時~シアターX

 舞台は大きく3段になっている。手前が最も低く、奥へ行くほど高い。奥の2段に特段箱馬などの設置はないが最上段上手には、天井から吊り物が下げられたり、部屋の一室を構成するような仕掛けがある。他は中段上手に平台が置かれやや高い位である。舞台随所にススキがあしらわれており、目隠しや点景として機能している。手前が最も作り込まれた場所だが、それでも下手に平台を1つ、上手には平台で創られた2段の段差を持つ構造物が見える他、ほぼ中央に腰かけに丁度良い高さに切りそろえられた大小3つの切株が適当な間隔を置いて配置されているのみだ。これらの場所の使われ方に応じて場所の名が映写されるので物語が呑み込みやすい。

 壮大である。物語の内容も、役者陣の演技、演出もスケールがデカい。この何年かの間に観た作品の中で最もスケールの大きさを感じる舞台であった。原作は船戸 与一氏の「満州国演義」だが、この長編を3部に分け、今回はその第2部。時代的には、満州国を成立させその経済を安定させると共に北方に於いては武装開拓民を配置して対ロシアの備えとすると共に「漢、満、蒙、朝、日」の五族協和などという茶番を唱導してアジアを植民地化する為、柳条湖事件をはじめ、傀儡として溥儀を立てて満州国独立を強行するのみならず上海事変など謀議に謀議を重ね、石炭や鉄などの地下資源収奪を目指し単にアジアに於ける覇権のみならず欧州へもその目論見を広げようと夢想していた。己の地歩も定かならぬに、その数十倍もの経済的規模を持つ地域への覇権すら夢想したのである。その根拠は高々松陰の「幽囚録」にすぎまい。百歩譲ってこのような覇権主義が正当性を持ったにせよ、それを実際に実行するに当たっては、その時点時点での徹底的な調査と客観的判断を得る為の矢張り徹底した分析が必要であることは言を俟たない。然るに南洲亡きあと(薩)長政治を通して培われたのは謀略によって敵対者を討つこと、制圧後そこから長い時間に亘って収奪するシステムを作り上げることではなかったし、明治以降そのような長期的視点に立って日本の為政者は支配して来なかった。それは五族協和というお為ごかしとして政治的に用いられただけである。何と浅墓な知恵であることか! 愚かにも敵対する者達を人間として扱っていないのだ。反撃を甘くみてしまうことになる。無論、西欧に於いても異人種に対してはこのような態度が大航海時代以降取られてきたのは事実だが、翻ってローマ迄遡るならば、奴隷と雖も優秀な者は解放奴隷として豊かでステイタスの高い生活を享受しえたし、皇帝になる者もローマ人ばかりでは無かったことからみても、その能力主義と人間一般を射程に収めたユマニスムの概念が確立していたことは意識しておいて良かろう。オスマントルコの治世が長く続いたのも、その支配が、他の民族をも人間として認めるという姿勢を現実に実践していたからに他なるまい。その後、主として英仏によるオスマントルコ解体の謀略にょって弱体化した帝国は第1次世界大戦で敗北した側に居たこともあって解体されることになったが、英仏で現在起る様々な暴力事件の淵源に英仏の謀略外交を伴った植民地主義が在ったことは意識しておいてよい。無論、第2次世界大戦以降、その役はアメリカに移り、その結果9.11も起こったのだ。9.11がアメリカCIAが暗躍してチリ政権を崩壊させた月日と同じであるのは、或いは計算ずくであるかも知れない。アメリカは攻撃されるに足るだけのことを世界中でやってきたのであるから。国家レベルのテロとして。それを現在真似ているのがイスラエルである。だからこそ彼らは国境を定めていないのだ。そして国境を定めないことの意味を初代首相であったベングリオンがハッキリ述べている。アメリカを真似て国土を拡張するのだと。国旗の上下に在る線をアラブ民衆はナイル河とチグリス・ユーフラテスと読んで恐れているのである。恐れると同時に嫌悪しているのは当然である。

 ところでナポレオン1世が建設を命じた凱旋門は、そのオリジナルとなったローマの凱旋門の規模の2倍を誇るが、1年のうちで最も昼の長い夏至当日、南中した太陽が沈むのは、パリ凱旋門の真ん中である。ご存じの通り、凱旋門が聳えるのは、シャンゼリゼ大通りだが、この大通りの真ん中に立って凱旋門を望めば太陽がこの門の中に沈む姿を目撃できる訳だ。ナポレオン1世及び3世が、一体何を目指したか、この事象からも想像することができるであろうし、エジプトから何をパリに持ち帰ったかを見ても、彼らの目指したものが何であったかを想像するのは容易い繰り返しになるが、彼らの夢が水泡と帰したのは、その後のフランスの植民地政策がローマのそれほど寛容でなかったこと、英国と利害を一致させオスマントルコの維持していた寛容性を台無しにすることによって、かつてのローマの栄華を露骨な植民地主義だけで、即ち利害得失と軍事力のみで獲得できるとした性急と人間理解の浅さに端を発していると見る。この点は英、仏、また第2次大戦後、イギリスの利権の多くを継承したアメリカが犯し続けている過ちと同等である。無論、英仏を追い掛けたドイツ、日本も同じ過ちを犯したし日本は未だに犯し続けている。脱線が過ぎた。

 ともあれ、今作が問うのは以上のような単純な植民地主義だけではない。そこに生きる人間と時代のうねりとの厳しい相克である。殊に関東軍特務機関員の間垣・特高、その背後で動く天皇の軍・財閥に対し各々立場の異なる敷島4兄弟(長男は外交官、次男は馬賊頭領、三男が憲兵、四男は通訳も務める麻薬中毒者)の生き様が描かれる仕掛けが秀逸だ。殊に次郎に、制約だらけのこの時代、一抹の美学と自由のかけらが在る事を見逃す訳にはゆかない。時代の要請する官憲、軍部による締め付けの切迫感が否応なく突き付けてくる緊張と敷島4兄弟の多様性が手際よく集約され対立を途切れさせない事が作品の要諦だろう。船戸氏の原作は未だ当たっていないのだが、何だか三国志を意識して書いたのではないかという予感がする。その作品の長さと国家と個人という視点(要は私と私を超える価値概念でアイデンティファイに不可欠な要素として嫌も応も無く関与してくる大きなもの・価値や価値を形成するシステム)を一種の冒険譚として構想している作品だと感じるからである。