朗読 ちょっとミュージカル風 「To a new tomorrow」2022.2.8 19時 ラドンナ原宿 (雪チーム)

 

 時代設定はバブル1991崩壊当時からの幾年、エベレスト登頂を目指す登山家と彼を愛した1人の女性の話だ。2部構成になっており、第1部では、朗読と俳優陣による歌唱+歌姫・秋野紗良さんのスキャット。無論、ピアノ、チェロ、ヴァイオリン、ベース、パーカッションは生演奏だ。第2部は、秋野紗良の歌唱をメインに俳優たちの歌唱。俳優たちも歌の上手い人々を揃えているが、矢張りプロ歌手には敵わない。殊に秋野紗良さんは、自分の声の長所の活かし方が暫く前より格段に上手くなっている。元々非常に美しい声の持ち主だが、高音部の聴き惚れるような美声は格別だ。

 ところで、山に生きようとする男が、何故命の危険や身体的なきつさ、凍傷のリスク迄抱え込んで尚山を目指すのか? 自分のように縦走が主の山登りとは次元が全く異なるが、それでも岩にアタックする際、殊にオーバーハングに出会った際などは、落ちれば良くて大怪我、下手をすれば死ぬということは嫌でも覚悟せねばならぬ。高々千や2千メートル級の山の岩場ですらそうなのである。ただそんな時、眼前にある苔の色が目に入った経験がある。死と隣り合わせで見る生命そのものの色の深みほど身に染みるものは無いのも体験的事実である

また、山ではなく海での経験であるが、水産高校出身の自分は、航海実習中に普段三角波が立つ太平洋の海面がいきなりベタっと凪ぎ、不気味に静まり返るようなベヨネーズ列岩で底釣りをしていたら大きな鮫が掛かり赤ん坊の掌ほどもある鮪針が折れ、獲物を上げようと船から引っ張っていた7~8人が船上でひっくり返ったり、夕まずめに大量のバラクーダが掛かったりするのを経験しながら小笠原辺りへ入った。新月の夜分、自分は通称ワッチと謂われる航行監視任務に就いていた。無論、ワッチは通常2人一組になって行う。ブリッジに上って任務を果たすのだが、オートパイロットが設定されているので、基本的に航行に異常がなければデッキに降りることも可能だ。自分は相棒をブリッジに残し舳先に立った。海の藻屑そのものの夜光虫が幾億光年の彼方から届く星明りと競合している。黒い海に黒い空そこに小さな穴が無数に開いて光が漏れるが、その暗闇の中を船が夜光虫を巻き込んで回転させ、翻弄しながら波を立てて進んでゆく。海と空の境が全く分からない。その時、自分は宇宙の真っ只中をたった独り航行しているような錯覚に襲われた。宇宙が俺の体の中を通り、俺が宇宙を航行しているという感覚だけがあった。エベレストの頂上で見る星空も悠久の時と諸星の詰まった天蓋としてそこに上った人を覆い尽くしてくれるのではないか? そんな気持ちにさせてくれた作品であった。

「タブーなき世界そのつくり方」

 

 ヘレン・ケラーとアン・サリヴァンを中軸に展開する物語だが、前回(2018.9月上演の「Optimism」)はヘレンの台詞回しが観客に理解されやすいことに主眼を置いて創られていたのに対し、今回は彼女の努力によって徐々に発話能力が高まってゆく方向へ舵を切っている。アン役は松本 紀保さん。紀保さんはかなり大柄でその分押し出しも強いが、ヘレンを演じる羽杏さんは華奢で小柄とはいえ気圧されることもなく、ヘレンの個を演じる所は流石である。乳母ヴィニーや白い肌ではあるが、黒人の父母を持つピーターの受難もショッキングではあるが、実際に行われて来た蛮行であり、ヴィニーの弟も、ピーターの父も白人の凄惨なリンチによって殺された、(その有様が如何様なものであるかは、リリアン・スミスの小説「Strange Fruit」や同名のタイトルでビリー・ホリデイが歌った歌でも有名)ヴィニー自身、黒人は入ってはならぬなどの差別を受ける、これらの理不尽に立ち向かうヘレンの勇気と偏見の無さ、その絶え間ない努力と人間としての偉大に勇気を貰った。

 上演は2020.2.12~16日まで新宿サンモールスタジオで詳細は以下

https://stage.corich.jp/stage_main/84967

秋野 紗良New Albumリリースライブ

  アルバムタイトルは“わたし 幸せです”(CDは全11曲入り、ライブは約1.5倍の曲数を歌ってくれた)。余り昏い時代にマッチしないと感じる人々も居るだろうが、お姉さんが芸大でチェロの非常勤講師を学生時代からやっていたほどの演奏家だった関係で年中芸大に行って生演奏や声楽を聴いていた自分の友人が、人の声程美しいものは無いと常々言っていたことが納得できる程の声を持つ逸材である。序盤緊張してガチガチになっていたが、その美声は、音楽の妖精が舞い降りた如く、聞き惚れてしまった。

 本当は11月20日、つまり今日コンサートをしたかったそうだ。亡くなった父上の誕生日だから。父母の愛をたっぷり受けて育った彼女のプロフィールは、以下の通り。

父上はピアニスト、母上はシンガーだから音楽に包まれて育った。5歳の時、東京から母の故郷、秋田県大館市へ家族で移住。10歳からコーラスを習い始め、中学時代は合唱部に所属。17歳の春に父上が他界したのを機に、アーティスト活動開始。高校卒業後、視野を広げるため、また美しい日本を知るために、徒歩で旅をしようと思い立ち北海道を回る。 

 自分も彼女と同年代の頃、日本半周ヒッチハイクをやった経験があり、彼女の大自然に対する感受性の鋭敏なことと宇宙の広大な広がりに思いを馳せることのできるイマジネーションの広さは良く分かるような気がする。素晴らしい歌を聴かせて頂いたお礼に自分が出会った大自然の最も美しい思い出を記しておく。

高校は水産高校に行っていたので航海実習があったのだが、小笠原の南を航行していた新月の晩(月は出ていないので星明りのみになる)、自分は仲間1人とワッチ(航行の安全確保の為の見張り番)をしていた。操舵室に通常はいるのだが、自分は独りデッキに降りて、舳先に立った。余りに星の煌めきが美しく、後にも先にもあんなに多くの当(まさ)に降るような星空を見たことが無い。漆黒の闇を無数の星が煌めきで穴を穿つかのように覆う宙(そら)に対応するハズの海もまた黒々していたが、夜光虫(光を発するプランクトン)が海をかき分ける船の波立ちの央(さなか)を星の如く蠢き泡立ちながら流れてゆく。海と空の境目が分からなくなったその時、自分は銀河の真っただ中を、唯独り航行してゆくような錯覚に包まれて感動に身を委ねていた。

 彼女の経歴を記しておこう。『NHKのど自慢』(鹿角市)今週のチャンピオン。『BJリーグ秋田開会式』秋田県民歌斉唱。『歌唱王2018』秋田県代表。2019年3月で 尾藤イサオさん主演のT1プロジェクトミュージカル『幸せな時間』(東京・本多劇場)に女優として出演。6月 秋田県大館市の御成座にて『秋野紗良 SPECIAL LIVE』を敢行する。9月T1プロジェクトの Musical『殺し屋は歌わない』(東京・下北沢)で初の主演を務める。他、イギリス大使館にゲスト出演、表参道で演奏されたオーケストラの第九にソプラノソリストとして参加、高知の梶が森ロックフェス、沖縄のブライダルフェア、福島のアートライブ等にもアーティストとして参加してきた。

 今回のソロライブは3部構成。17曲。作詞・作曲を秋野さん自身が作った曲もあれば、T1プロジェクト主宰の友澤 晃一さんが作詞している曲も入っている。必聴のアルバムである。

佐原 和行X佐原 和人二人展

佐原 和行X佐原 和人二人展 京王プラザホテル本館3階ロビーギャラリー

           2019.6.1~6.9(10時~19時・最終日16時迄/会期中無休)

 佐原父子2代の作品、111点を展示。ギャラリーは上下2つのフロアにわかれている。父・和行氏の作品は、完全な水彩で何十回も色を重ね、水彩特有の滲みを重視した作風で、その柔らかで繊細な華やかさで観る者を魅了する。滲みを的確に反映させる為に、和紙に描かれている。今回の展示には出展されていないが、水彩画としては極めて珍しい100号を超える大作も存在する。

 和人氏の作品は、和紙以外に時折洋紙も用いられ、メキシコの壁画運動で用いられ、その色彩の豊かさ、厳しい環境の変化にも経年劣化にも耐える強靭さなどからアクリル絵の具も用いられることがある。お父上との際立った差は、描く対象の差と都会的でシャープな感覚の差にあろうか。何れにせよ、総てのアーティストは、時という永遠、場所という空間、そして自己を通して認識された人間という3つのテーマと格闘する。その成果が、今回父子二人展として鑑賞者の目の前にある。

佐原 和行X佐原 和人二人展

佐原 和行X佐原 和人二人展 京王プラザホテル本館3階ロビーギャラリー

           2019.6.1~6.9(10時~19時・最終日16時迄/会期中無休)

 佐原父子2代の作品、111点を展示。ギャラリーは上下2つのフロアにわかれている。父・和行氏の作品は、完全な水彩で何十回も色を重ね、水彩特有の滲みを重視した作風で、その柔らかで繊細な華やかさで観る者を魅了する。滲みを的確に反映させる為に、和紙に描かれている。今回の展示には出展されていないが、水彩画としては極めて珍しい100号を超える大作も存在する。

 和人氏の作品は、和紙以外に時折洋紙も用いられ、メキシコの壁画運動で用いられ、その色彩の豊かさ、厳しい環境の変化にも経年劣化にも耐える強靭さなどからアクリル絵の具も用いられることがある。お父上との際立った差は、描く対象の差と都会的でシャープな感覚の差にあろうか。何れにせよ、総てのアーティストは、時という永遠、場所という空間、そして自己を通して認識された人間という3つのテーマと格闘する。その成果が、今回父子二人展として鑑賞者の目の前にある。

「かさぶた式部考」櫂人第五回公演 2019.5.30 14時 上野ストアハウスで拝見

6月2日まで(上演中)詳細は以下:https://stage.corich.jp/stage/100331

 今作の式部は式部でも紫式部ではない。和泉式部である。原作の秋元 松代が想を得たのは当パンによれば柳田 国男の「女性と民間伝承」記載の文章からだという。

 庶民の抱え込まざるを得ないどうにもならない門題を秋元 松代はキチンと脚本化している。彼女と一緒に仕事をしていたプロデューサーが、秋元のことを話してくれたことがある。決して大きな方ではなかった。寧ろ小柄な方だったというが、彼女の最もな主張に異を唱える者があると、「無礼者!」と叫ぶや否や態々数歩下がって腰を屈め頭を先頭にして頭突きを喰らわすような激しい闘志を秘めた女性であったという。作品を拝見してついこの話を思い出してしまった。富岡 多恵子さんや亡くなった「苦界浄土」の作家、石牟礼 道子さんのように真の優しさ(菩薩性)を持った女性なのだろう。今作の中にも菩薩についての説明は出てくるので興味のある方は是非、作品をご覧頂きたい。

 

 どうにもならない庶民の抱え込まされる問題を、豊一を仲立ちとして、母・伊佐、妻・てるえ、そして彼らを嘲笑うかのようでありながら次元を異にする妖婦・智修尼。更に智修尼の二重性を、その俗での属性である肉欲によって表象させる装置としてのもう1人のウツケ・夢之助らが、和歌で表される韻文、生活者の描かれている散文、そして土俗を表す肥後方言によってキチンと描き分けられつつ脚本化されている秋元さんの筆力と社会観察の確かさを感じさせる作品だが、このような作品を選び、今上演する演出家・篠本 賢一氏の見識も高く買うべきだろう。

 櫂人は2011年結成のシニア劇団だが、結成以来篠本氏が、指導している。演技は総じて良くなってきているが、今回上手い役者さんが一人、いらっしゃる。信者のまとめ役を演じている方である。だが、何と言っても今作でいぶし銀の様に光るのは矢張り秋元 松代さんの戯曲だろう。因みに今作は大部分が肥後弁(つまり熊本辺りの方言)で書かれている。1960年代前半と言えば、1956年に熊本大学医学部が因果関係を明らかにする為の最終実験を始めた結果水俣病の原因がチッソの垂れ流す廃液であることを明らかにしたものの企業城下町での人間関係やチッソが国策会社であったことなどからくる隠蔽工作などで被害が拡大、貧しい者からは特に大きな被害が出た時代であり、石炭から石油へのエネルギーシフトにより斜陽化しつつあった石炭産業では、労働条件の悪化や坑道の無理な拡張と保守の不備から三池炭鉱では63年、戦後最多の死者を出した炭鉱事故が起きた。命を失くさずに済んだ者もCo中毒によって後遺症を発症したし、事故時のトラウマから今作でも描かれているように患者の気付く所で火を焚いたりすれば、事故時のショックが再現され、パニック障害を起こしたことも事実であるのに、専門家と称された医師団報告では病は詐症とされるなど、病因もハッキリさせることが出来ないままに被害者を遺棄していった時代であり、このような陰惨な事実を隠蔽する為にこそ、64年の東京オリンピックという花火が華々しく打ち上げられた。それは恰も、その華やかさと憂さ晴らしによって、民の間に蔓延する生き地獄が実は単なる悪夢、否、マヤカシでもあるかのように意識の表面を上書きして皮下を見えなくしてでもいるかのようである。丁度、福島人災を矮小化し、実体を隠し、今回もまた、癌と放射性核種による被ばくとの間には因果関係が無いかの如き発表が“専門家”によって為されているように。

 ところで水俣病イタイイタイ病のみならず、その後のサリドマイド禍や、非加熱製剤によるエイズ禍などでも厚生省、専門家はキチンと彼らの失策の責任を取ることをしなかったのは衆知の事実である。今作に登場する豊一はこのような犠牲者の象徴であることは明らかだ。何となれば、今作が書かれた動機の一つが、このような弱者に対する理不尽であり、作家・秋元 松代の魂に火をつけた原因なのだから。実際、秋元は炭鉱に出掛けてキチンとした取材をしている。さて、今作で奇蹟を感じさせる豊一の一時の覚醒だが、実際のCo中毒患者にもこのような事例がみられた。そのことを秋元は取材の過程を通して知った上で、多くの宗教組織の持つ政治性を撃って見せる為に、この事実が奇蹟と見えるように仕組んでいる。これは、彼女の豊かな才能の為せる技である。

 今作の前後にはオリンピック関係の映像が用いられ作品をサンドイッチしているが伊佐とてるえの描き方は殊に見事だ。2,3例を挙げておけば、先ず序盤の口論の場面、てるえの勝気で現代的な側面に対して伊佐は原則的にその自由を認めており、てるえが伊佐の自分への微妙な心使いと村人への用心を矛盾と捉え、そのことが彼女を姑への反発に導いていることがてるえの若さとして描かれている。何となれば、てるえにとって伊佐は煩わしいからである。つまり、互いに中々頭の良い女性同士の鍔迫り合いということだ。てるえの吐き気からつわりを悟り何くれとなく心遣いをする伊佐の様子も、またこの時点でてるえと庄三との関係を疑っていることも窺われるので、彼女の可也自由な発想は筋金入りと言って良かろう。終盤でのてるえに対する態度もこの一貫性の現れで矛盾は無い。一方、伊佐の変化は、最終部に如実に現れている。山に籠って番をするようになってからのシーンである。お巡りの者達が訪れ、奇蹟を記念して描かれた絵馬を前にして口々に勝手なことを言う。「お茶を運んで来い」だの、豊一を「いい男」だの「綺麗なお母さん」だの「良い所の奥さまだった」だの、と。かさぶたに覆われてでもいそうなお茶を運んできた老婆(この場面での伊佐は無論、子を失って行脚し癩を患ってかさぶただらけの姿になった和泉式部その人の写しである)こそ、この絵に描かれた母その人だとも知らず、絵に見とれ、手を合わせ、ご本人にゾンザイ極まる口をきく。また、別のお巡りさんは息子をカドミウムにやられ、その痛みの鋭さ、辛さに苦しむ有様、手足も満足に動かせず赤子同然の大黒柱に心痛める母として「子を産んだことの無いあなたには分からないだろうけれど」と前置きされた後、己の息子・豊一同様、働き盛りに事故や公害で体を蝕まれ、世間から嘲笑われ、余計者と看做され、陰口を叩かれ、身の置き所さえないばかりではなく、勤め先からも何の補償や保障も無いどころか、それらの政策を推し進めて来た国や自治体からも遺棄された絶望の先に、藁をも掴む意で縋った信心にさえ裏切られ、命の髄を干からびさせられる程、即ち絶望できるなどということが如何に甘いかを思い知らされた挙句、日々音も無く存在の根拠を舐め取られながら、以上を支えていたハズの底など初めから無かったことを悟り、刻々音も無く底もなく尚深まってゆく深淵に、為す術もなく落ちてゆく己の、底抜けに深まりゆく絶望を呻きに変えて、科白には表せない民衆の怨嗟を突き付けてくる、或いは真の自由を。これは、かつて田中正造足尾鉱毒事件を直訴せざるを得なかったような、この国の惨たらしい在り様が何ら変わっておらず、為政者、支配層が一切変わっていないことの証左である。そして1964年の東京オリンピックを終えて半世紀以上の時が経った今も、その本質は一切変わらなかったことを露骨に表しても居よう。であるなら我らは民衆は今、一度、田中 正造の言葉を思い出してみる必要があろう。その言葉とは「亡国を知らざれば、これ即ち亡国」。我ら民衆は今、こんなに当たり前のことを言う口さえ失くそうとしている! のではないか? そのような位置にたってこそ、同時に真の自由のトバ口に立っていると言えるのかも知れない。

 おっと、大切なことを書き忘れていた。舞台美術は簡素化し得る限界迄簡素化されている。但し、それは何一つ肝心な要素を省いていない。深山幽谷を表す為の高低差や初代式部が籠り、身投げをした霊場迄描き出さねばならぬのだし、豊一一家の家も、お巡りさんらの宿泊所も、道行の工程も総てを表さねばならぬからである。無論、此処まで簡素化する以上、観客の想像力を最大限発揮して貰えるような仕組みも作っておく必要がある。これら総ての要素にちゃんと応える仕掛けとして用いられているのは、奥に行くほど高くなった厚めの平台、下手の階段、上手では、平台の高低差に応じた踊り場状橋掛かり、黒の緞帳、カーテンレール、幕などと小道具、そして出捌けなどのレイアウトとそのタイミング、観客席と観客に協力して貰った仕掛け(お巡りツアー席)、衣装等である。最も高い位置にある奥の霊場部分は大方閉じられているのだが、カーテン式に開閉出来る為、頗る大事なシーンでたったこれだけの仕掛けが、大変重要な役を果たすし、観客に協力して貰って座る最前列の10席では、お巡りさんの衣装を着用して貰う“お巡りツアー席”なるものが設けられており、当然のこと乍ら、客席にお巡りさんが同席するというメタ化が図られている。劇団としては協力して頂く訳だから、当日券より1000円安く観劇もでき、観客としても面白いと楽しむことができよう。無論、お巡りさんの衣装は貸してくれるが、席の指定はできない。座席は最前列の何処かに10席設けられるということだ。