古いものばかりでもなんだから、最近拝見した作品からもちょっと挙げておこう。

「OPTIMISM」アブラクサス16th 2018.9/5~9/9 Theater Green Base Theater

 今回で3度目の上演となる作品だが、主演の羽杏さんのまるでヘレンケラーが憑依したような演技の素晴らしさに、恩師、サリヴァン役の坂東 七笑さんの力強く、繊細な演技が素晴らしい。アメリカ南部の有色人種差別に重なる障碍者差別、女性を労わると見せかけながら、その実自主性を奪い隷属させようとするジェンダー的差別、それらを越えて懸命に生きるヘレンの凄まじいまでの生き方が、観る者の魂を心底から揺り動かす。

 無論、今作の脚本は、それだけに留まらぬ深みを具えている。ヘレンの兄、シンプソンの抱えるトラウマや、父アーサーの死因、また肌が白い為一見白人に見えるピーターに黒人の血が混じっていたことが分かると、若い頃にはKKKKu Klux Klan)の真似事なんぞをやってチンピラ風だったシンプソンの差別意識が、かなり克服されたかに見えたのも束の間、傲然と頭を擡げ一方的に暴力を揮うシーンなどに差別の構造が端的に描かれているのだ。ここでいう差別とは、差別する側が必然的に被差別者を恐れるという深層心理構造を抱え込むことであり、掛かるが故に過剰防衛、過剰な差別が固定化されるという差別の持つ構造性である。

 サリヴァン着任当初ヘレンの鋭敏で的確な感性と明晰な頭脳は、そして誰かの役に立ちたいという社会奉仕の精神は、三重苦という障害の為に多くの人々の観察眼にバイアスを掛けさせ、彼女の真の能力とポテンシャルの高さを見出す者はごく一部の者のみであった。その後もヘレンの努力は、まさしく血のにじむようなものであったが、その真の成果を正当に評価できる者が、多かった訳では決してない。

 この点にこそタイトル「OPTIMISM」に込められた意味があるだろう。ヘレンは己の可能性を信じることができ、その信念を実践する事に可能性を見ることが出来た。何故ならサリヴァンが当に己の能力と可能性を映す鏡として現存した訳だし、彼女との人間的紐帯を通して「人類」と繋がる夢を持つことができたからである。彼女が齢7歳にして最大最良の理解者であり、師であるアン・サリヴァンに出会ったことの意味深さをも感じる。更に、サリヴァンの身体が老いと病に蝕まれつつあった時期には、不思議な縁でヘレンの人生の節々に登場しており、彼女の内奥の声を表出したが故に、既に著名であったにも拘わらず出版を拒否された著作を唯一支持、本という形にして出版に漕ぎ着けたピーターの彼女に対する真摯な尊敬と愛に出会えたことが、ヘレンに齎したものが如何に大きかったかも汲み取ることができる。後半、この辺りの事情が、彼女の自伝的書物を出版した肌の白い黒人(白人との恋を禁じられていた)ピーターと恋愛を法によって禁じられていた障碍者ヘレンとの恋として描かれるのだが、この恋の美しいこと。因みにピーターの両親は白人のリンチで殺されているが、何故彼の肌が白いかといえば、祖母が白人にレイプされ産んだ彼の母の肌色が白色の肌の遺伝子を継承し彼もそれを継承したからである。黒人に対するリンチが如何に酷いものであったかは様々な文献に残っているし、小説の描写などからも知ることができるから興味のある方は調べてみると良い。

 一方、社会の偏見は易々と消えるものではないから、ヘレンが絶望に突き落とされることもあった。三重苦である己が生きてゆく為にはサリヴァンら周りの人々に過重な負担を強い、遂には死に至らしめると認識して己を余計者と断じ、幽界との境を彷徨するような辛酸も舐めたであろう。だからこそ、逆説的ではあるが彼女は己が人間である為に、他者との信頼関係を保つ唯一の便として希望を捨てなかったのであり、それを保つためにOPTIMISMを必要としたのだ。それ故にこそ、大文字表記なのであろう。

また社会主義的と看做されたことが原因で金欠に陥ったとこともあってボードビルショーに出演することになったケラーが、観客の出す質問に答える演目の場面も上演されるのだが、今作で描かれている通り、彼女のウィットに富み且つ本質的な答えが満場を沸かせたことは間違いなかろう。

ピーターを演じた神山 武士氏の瑞々しい演技、若い頃の不如意を抱えたシンプソンから大人になって南部の紳士らしさを具えた人格を表現した高橋 壮志氏の演技も気に入った。