トリックスター

標記公演は18日まで 下北劇小劇場で公演中

詳しくは以下のサイトで

https://stage.corich.jp/stage_main/77166

トリックスター」Spiral Moon the 39th session 2018.11.14 19:30~劇小劇場

 人間はたった旬日の間、飲み食いを完全に断っただけで簡単に死ぬ。エネルギーの使用状況等の関係で生き残る者はあるかも知れないが、普通に働き、或いは生活をしてゆけば先ず倒れる。その程度の生き物である。そんな軟弱な生存が、やれ理論で勝ったの負けたの、或いは容姿が良いだの悪いだの、金持ちだの貧乏だの、要は比較級の中で必死に優劣を争い合っている。

 一方、核の塵だの、人間が生産してしまって地球という母の胎内である海や地底に捨てた有毒物質や微小な生命体やウィルスなどによっても分解されないケミカルな塵は、今後、この命の星の生態系に如何なる悪影響を及ぼすかも解明できない。

 更に、上記の如く下らない理由で他人を蹴落とすことに夢中で、問題の本質を見ようともしない大多数の人々と上から目線で社会の尺度を作ったと言う官僚、政治屋、利害得失に敏いだけの下司。こういった連中が今の日本社会をデザインし活用して、他ならぬ喧嘩の当人たちから吸い上げ不当にも己の私財と化していることは今更指摘するまでも無い。

 今作のタイトルはトリックスターネイティブアメリカンの民潭に登場するキャラクターだと記憶している。元々神や長(族長、王など)を愚弄する悪戯者として登場する一方、文化的英雄としての側面も併せ持つのは、彼らが人に知恵や様々な道具をも齎すとされるからだ。作品のオープニングにポーカーのシーンが登場するのは無論偶然などではない。トランプにはジョーカーが含まれており、ポーカーゲームには、これを用いないのが通例だから、この時点でジョーカーが人間界に降りていると捉えられるのである。従って本来強面であるべきハズの組事務所メンバーに余り威圧感が無いのは必然で、そう解した方が面白かろう。逆に非常に知的で上質な推理小説のような展開が中盤待ち受けているのは、このような前提と演劇の本質である歌舞く技術が重ねられた、また歌舞くことによってしか描けない真理を表現する為であるとすれば、これはずっとスパイラルムーンが追い続けてきた表現することの意味そのものでもあろう。

 終盤、慎の問い掛けから始まる一連の本質的問いでは、先ず民主主義とは何か? が問われる。それが人民が権力を握り行使することであるとすれば、戦争にするか、しないか。では多数派はしないであり、原発再稼働する、しないか。でもしないが多数派だ。然し民主主義で望まれている多くの事柄で様々なデータによって明らかに多数派を占める民衆の願いが何故実現されていないのか? が問われるのだが、他にもたくさん上がる具体的な指摘で民意は反映されていないのが明らかである。

何故か? 王(即ち権力者)とは一番の詐欺師だから、ではないか? だとすれば、それが何故可能になるのか? 

 答えは観劇する我々自身が出さねばなるまい。何れにせよそれを為す為に仕掛けられている条件が、劇中で使った食材をちゃんと残さず食べることに示されている。どういうことか? 想像力の問題だ。即ち我々個々人が生きるということは、他の命を喰らい、資源を己の為に用いているということなのだ。このレビューの最初に書いた通り、たった旬日、飲み食いを完全に断つだけで、我らは簡単に死の危機に見舞われる。そして地球上には、多くの飢えた子供達が存在し、自分の暮らしたことのあるアフリカでは、外国人客が入るファーストフードショップなど大方1階にあり、客数の多い、而もセキュリティーシステムよりは開放制を重視するような店の前にはストリートチルドレンが屯し、客が食べ物を落とせばあっという間にテーブル下に潜り込んで拾って食べる。店にはガードマン程度は居て、子供をやんわり外へ追い出す。すると拾えなかった子供が襲い掛かり血を流し合って壮絶な喧嘩になる。そんな光景を見て来た自分にとって、「普通に」稼いで食える、ということが、単に己の生命維持の為に生き物の命を頂き資源を消費するのみならず、どれほど貧しい人々の犠牲の上に成り立っているのかが良く分かるのだ。今作は、その事実を舞台上で訴えかけた上で、キチンと法や権力機構では解決できない問題を解決する為の人為組織としてのトリックスター集団という夢を提起しているのだ。小さい頃、深川の長屋暮らしの経験も持つ自分の周りには、墨を入れたヤクザもたくさん居た。だが、あの頃のヤクザは、素人さんには迷惑を掛けない、という暗黙の掟が実際機能していて、警察がタッチできないような問題は、彼らが間に入って上手く収めていたものだ。無論、強面で怖い反面、親分さんなどと呼ばれて人々の間に溶け込んでもいた。今作に描かれた人々は、こんなタイプの人々をベースに置いてもいよう。暴力団というのが出てきた頃からこういった組織自体が無くなっていったように思う。

 公演の時間的関係もあって、毎回完食は難しいこともあるかも知れないが、少なくとも以上のような公演をして見せた回があったということは注目に値する。見せ方もちゃんと終演の挨拶を挟んで観客に理解させた上で上手に見せていた点も流石である。

 ところで、今作に出演している役者さんの中に福島出身の方も居るとのこと。3.11当日は卒業式だったとか。昨日WEBで見付けた素晴らしい作品があったので、そのサイト紹介もしておこう。福島の方々の中でも特に子供たち、女子学生、妊産婦などがどれだけ大きな不安を抱えているか、そのストレスが、オリンピックをダシにした喧伝と如何に異なるか、注意深くこのアニメもご覧いただきたい。

https://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/anime/p21b8293e3c7ab7168c060b972a582147

また、権力というものがどの程度の広がりと強度を以て我らを洗脳しているかについては、ガザのことを少し知らせておきたい。日本の新聞には決して載らない実情である。

https://pchrgaza.org/en/

シャルロット すさび

東京上映は新宿K’S cinemaで10月19日まで。開演は朝10時、

1日1回の上演だ。この後大阪、広島などでの上映も予定

されている。詳細は作品ホームページでご確認頂きたい。

http://www.iwanabutoh.com/film/susabi/indexJP.html

 フランス在住30年の舞踏家、岩名 雅記氏4作目のムービーだ。ファーストシーンが、今作のテーゼを見事に集約している。広大な麦畑に鳥の囀り、虫たちの合唱が長閑な情景をいやが上にも盛り上げ、観ている者を安堵に誘う。全裸の女が独り立っている。この人と自然が調和した里山のような平和を、突然崩す爆音が響く。恐らくは軍機の飛ぶ飛翔音であるが、この爆音は、辛うじて保たれていた自然の鬼っ子・「人」と自然の調和を暴力的に破壊するに充分だ。より端的には人類が自然に与える暴力そのものを象徴するシーンだと言える。

 少し細かく分析しておけば、ジッドを出すまでも無く、麦は動物である我々が生命を維持する為の大切な食糧そのものを意味し、そこに集う鳥たち、虫たちの混声合唱団は、自然の恵みを受けた生命の多様性と歓喜を表しており、素裸の女は人に残された最後の自然、即ち“身体”を象徴している。素裸はその裸形そのものの直接性だ。

 

「となりの事件」シアターノーチラス#26 2018.10.12 14時 OffoffTheater

 メーテルリンクの「青い鳥」が冒頭をはじめ随所に挿入されて散文詩のような構成になっているのが興味深い。韻文詩と異なり、散文詩はその形式が比較的自由であるばかりでなく、散文の特徴である客観的事実や事象を描くのに適していることは、母音の矢鱈に多い日本語以外の詩について多少深い勉強をしてきた人間には当然の認識であろう。今作でもこの辺りの文学的事情が上手に用いられている。

というのもシアターノーチラスの作品自体が群像劇を標榜しているということがあり、現代日本を生きる普通の人々の微妙な生活感覚や他人との距離感、個々人のメンタリティー、時に個々人の中にある価値観やメンタリティーの強弱なども描き出して見せてくれるのだが、今作では特にこの辺りのホントに微妙で日本的な躊躇が齎す非行動の意味する所を、他の方法では描くことさえ適わなかった形で形象化してみせた。

 日本人には主体性が無いとか、自分の意見を表明しないとか、何を考えているのか分からないという言葉は良く聞く。喋らなければ或いは自己主張しなければ、存在自体を認められないような社会ではないからだと言えばそうなのだろう。然し、これは日本人の傾向として特にファクトに向き合おうとしない生活態度から来ているような気もするのである。何だかんだ屁理屈をつけては目の前の問題から逃げることばかり考えたがるのが日本人の特質なのかも知れない。早いうちに手を打たないから問題が肥大化して手が付けられなくなるのだが、そのような知恵はファクトと向き合い対決してきてこそ生まれる。最初からそこを無視して逃げてばかりいる人々には手遅れになってからアタフタする他に道が無いということも事実であるから。こんな日本人を彼らはと言えば、憎まれ口も防げようが、敢えて言っておく。日本人の大多数は、見ようともしなければ聞こうともしない。何を? ファクトをだ!

その結果がF1人災であり、加計学園問題であり、カジノ誘致問題であり、憲法9条を護る伊ことを主張しながら、沖縄に犠牲を押し付けることについては同時に問わない姿勢であり、ちょっと古い所では裕仁の戦争責任問題看過問題等である。

 何れにせよ、今作板上には正面奥に背凭れ付きの椅子が7脚置かれているだけであとはフラット。登場人物が必要に応じて椅子を板上に持ち出し、対話相手と適当な位置、距離を取って己の座る場所に椅子を持っていって座る。歩行や座った状態での演技が殆どなので、細かい表情や、決して大げさは無い科白の意味する所、科白と科白の間にある何かを如何に解釈するかが観客の作業である。

様々な襞に覆われ、認識の果てに不可知論に陥りそうな場所で、各々の登場人物が何をどのように考え、或いは感じ、どのように生きているのか? 各々は各々の生を本当に選んでいるのか? 選ばされているのか? そのどちらでも無く単に流されているのか? 流されているのだとすれば、その時彼らを流しているのは、何か? 等々多くの疑問が湧いてはシャボン玉のようにはじける現実のように物語は進んでゆく。或る意味とても恐ろしい物語である。そしてその恐ろしさは、頭の中身が無いムカデが己の進みゆく先を一切顧慮せず、絶滅という淵に只管進みゆくのみであるにも関わらず、己の行為の結果も、己の行動の簡単に予測できるハズの未来も、唯現実に向き合おうとしないことが原因で、必然的に起こる事実から目を背け続けることによって出来したという、自ら責任を負うべき事実を、己に突きつけないということに起因する怖さ、即ち想像力の残酷なまでの欠落を表す現実の怖さが示されている怖さなのである。

 2018.10月14日迄、下北Offoff Theaterで上演

「クロノライセンス」1mg東西同時旗揚げ公演 2018.10.11 14時 Theater Kassai

 先ず目を惹くのが白と黒を用いた舞台美術だ。様々な巾の布を用いて各ゾーンが仕切られているのだが、構造はシンメトリー。センターが凹んでいる分左右は出っ張っている訳だが、この凸凹を利用して、出捌けから出てきた役者陣が出る時も入る時も見え隠れするという単純だが面白い仕掛けが作られていて、各々の動きにアクセントがつく。他にも客席側にハの字に張られた目隠しは袖を形成しつつ出捌けも兼ねる。黒と白を用いているのは、無論話の内容に関わりがあるなど、気の利いた作りだ。

 オープニングは暁闇から明転と比較的オーソドックスだが、役者が上手い。狂言回しが、実に自然な佇まいで入ってくる。その直後、メインテーマに直結する若夫婦のシーンが入るのだが、この構成も実に上手い。この後ダンス等が入るのは、必然性が無いので自分の好みではないが、踊りも良く揃い、皆上手い点は褒めておく。東西(今回は大阪・東京)同時旗揚げ公演ということだが、演技力からみると出演者全員が既に様々な劇団で演技を磨いてきた実力者だろう。若いがしっかり基礎をやっているのは、間の取り方、演技の際の自然な身体の用い方などから明らかだ。原作があるとのことだが、脚本も随所に人生の本質や深みを感じさせる科白が鏤められ、落ち着いた中に味のある丁寧な作りで好感を持った。演出も奇を衒う所のない自然な表現を的確に引き出すことに成功している。舞台美術がシンメトリックで安定感があり合理的なことと役者達の動きがスムースなこととが、話の内容が非現実的であるにも拘わらず芝居全体に安定感を与えていることも重要な点だ。役者陣の力量は各々の演技が自然で、身体の内側から圧力を高めるような、大仰ではないがしっかり観客一人一人に届く演技をしていると言えば理解して頂けよう。音響・照明も適切である。裏方さん達の対応もグー。

 尚東京公演は10月14日まで、池袋シアターKASSAIにて

「燃え広がる荒野」ピープルシアター第66回公演 2018.10.3 19時~シアターX

 舞台は大きく3段になっている。手前が最も低く、奥へ行くほど高い。奥の2段に特段箱馬などの設置はないが最上段上手には、天井から吊り物が下げられたり、部屋の一室を構成するような仕掛けがある。他は中段上手に平台が置かれやや高い位である。舞台随所にススキがあしらわれており、目隠しや点景として機能している。手前が最も作り込まれた場所だが、それでも下手に平台を1つ、上手には平台で創られた2段の段差を持つ構造物が見える他、ほぼ中央に腰かけに丁度良い高さに切りそろえられた大小3つの切株が適当な間隔を置いて配置されているのみだ。これらの場所の使われ方に応じて場所の名が映写されるので物語が呑み込みやすい。

 壮大である。物語の内容も、役者陣の演技、演出もスケールがデカい。この何年かの間に観た作品の中で最もスケールの大きさを感じる舞台であった。原作は船戸 与一氏の「満州国演義」だが、この長編を3部に分け、今回はその第2部。時代的には、満州国を成立させその経済を安定させると共に北方に於いては武装開拓民を配置して対ロシアの備えとすると共に「漢、満、蒙、朝、日」の五族協和などという茶番を唱導してアジアを植民地化する為、柳条湖事件をはじめ、傀儡として溥儀を立てて満州国独立を強行するのみならず上海事変など謀議に謀議を重ね、石炭や鉄などの地下資源収奪を目指し単にアジアに於ける覇権のみならず欧州へもその目論見を広げようと夢想していた。己の地歩も定かならぬに、その数十倍もの経済的規模を持つ地域への覇権すら夢想したのである。その根拠は高々松陰の「幽囚録」にすぎまい。百歩譲ってこのような覇権主義が正当性を持ったにせよ、それを実際に実行するに当たっては、その時点時点での徹底的な調査と客観的判断を得る為の矢張り徹底した分析が必要であることは言を俟たない。然るに南洲亡きあと(薩)長政治を通して培われたのは謀略によって敵対者を討つこと、制圧後そこから長い時間に亘って収奪するシステムを作り上げることではなかったし、明治以降そのような長期的視点に立って日本の為政者は支配して来なかった。それは五族協和というお為ごかしとして政治的に用いられただけである。何と浅墓な知恵であることか! 愚かにも敵対する者達を人間として扱っていないのだ。反撃を甘くみてしまうことになる。無論、西欧に於いても異人種に対してはこのような態度が大航海時代以降取られてきたのは事実だが、翻ってローマ迄遡るならば、奴隷と雖も優秀な者は解放奴隷として豊かでステイタスの高い生活を享受しえたし、皇帝になる者もローマ人ばかりでは無かったことからみても、その能力主義と人間一般を射程に収めたユマニスムの概念が確立していたことは意識しておいて良かろう。オスマントルコの治世が長く続いたのも、その支配が、他の民族をも人間として認めるという姿勢を現実に実践していたからに他なるまい。その後、主として英仏によるオスマントルコ解体の謀略にょって弱体化した帝国は第1次世界大戦で敗北した側に居たこともあって解体されることになったが、英仏で現在起る様々な暴力事件の淵源に英仏の謀略外交を伴った植民地主義が在ったことは意識しておいてよい。無論、第2次世界大戦以降、その役はアメリカに移り、その結果9.11も起こったのだ。9.11がアメリカCIAが暗躍してチリ政権を崩壊させた月日と同じであるのは、或いは計算ずくであるかも知れない。アメリカは攻撃されるに足るだけのことを世界中でやってきたのであるから。国家レベルのテロとして。それを現在真似ているのがイスラエルである。だからこそ彼らは国境を定めていないのだ。そして国境を定めないことの意味を初代首相であったベングリオンがハッキリ述べている。アメリカを真似て国土を拡張するのだと。国旗の上下に在る線をアラブ民衆はナイル河とチグリス・ユーフラテスと読んで恐れているのである。恐れると同時に嫌悪しているのは当然である。

 ところでナポレオン1世が建設を命じた凱旋門は、そのオリジナルとなったローマの凱旋門の規模の2倍を誇るが、1年のうちで最も昼の長い夏至当日、南中した太陽が沈むのは、パリ凱旋門の真ん中である。ご存じの通り、凱旋門が聳えるのは、シャンゼリゼ大通りだが、この大通りの真ん中に立って凱旋門を望めば太陽がこの門の中に沈む姿を目撃できる訳だ。ナポレオン1世及び3世が、一体何を目指したか、この事象からも想像することができるであろうし、エジプトから何をパリに持ち帰ったかを見ても、彼らの目指したものが何であったかを想像するのは容易い繰り返しになるが、彼らの夢が水泡と帰したのは、その後のフランスの植民地政策がローマのそれほど寛容でなかったこと、英国と利害を一致させオスマントルコの維持していた寛容性を台無しにすることによって、かつてのローマの栄華を露骨な植民地主義だけで、即ち利害得失と軍事力のみで獲得できるとした性急と人間理解の浅さに端を発していると見る。この点は英、仏、また第2次大戦後、イギリスの利権の多くを継承したアメリカが犯し続けている過ちと同等である。無論、英仏を追い掛けたドイツ、日本も同じ過ちを犯したし日本は未だに犯し続けている。脱線が過ぎた。

 ともあれ、今作が問うのは以上のような単純な植民地主義だけではない。そこに生きる人間と時代のうねりとの厳しい相克である。殊に関東軍特務機関員の間垣・特高、その背後で動く天皇の軍・財閥に対し各々立場の異なる敷島4兄弟(長男は外交官、次男は馬賊頭領、三男が憲兵、四男は通訳も務める麻薬中毒者)の生き様が描かれる仕掛けが秀逸だ。殊に次郎に、制約だらけのこの時代、一抹の美学と自由のかけらが在る事を見逃す訳にはゆかない。時代の要請する官憲、軍部による締め付けの切迫感が否応なく突き付けてくる緊張と敷島4兄弟の多様性が手際よく集約され対立を途切れさせない事が作品の要諦だろう。船戸氏の原作は未だ当たっていないのだが、何だか三国志を意識して書いたのではないかという予感がする。その作品の長さと国家と個人という視点(要は私と私を超える価値概念でアイデンティファイに不可欠な要素として嫌も応も無く関与してくる大きなもの・価値や価値を形成するシステム)を一種の冒険譚として構想している作品だと感じるからである。